新築住宅に移住し新生活を始める

文・写真:小川 鑛一 編集:篠﨑春彦

第2部 新築住宅に移住し新生活を始める
1.はじめに
 第1部では、独身時代の思い出について主に述べました。結婚当初は、東京都武蔵野市吉祥寺にある台所と6畳一間、トイレは共同の狭いアパートで生活を始めました。子供が産まれてから筆者は押し入れに寝たことも何回かあります。3年間、この狭いアパートに住み、入間市農協と国家公務員共済組合連合会から資金を調達し入間市の戸建ての家に移住しました。

1.眞喜子思い出の品見つかる
 前回投稿した「東京下町で育った環境と移住先の想い出数々(第1部)」で述べたように58年前の1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にケネディ大統領暗殺事件がありました。暗殺直後の午後1時ごろ郵便局に当時の婚約者(妻眞喜子)にクリスマスプレゼントを送ろうとしていた時の話を書きました。しかし、そのペンダントが見当たらないので、掲載できませんでした。ところが最近、それが見つかりましたので、ここにその写真(写真1)を掲載します。
 眞喜子は忘れることができない思い出のプレゼントだと、過去58年間毎年クリスマスの時期になるとこのペンダントを胸につけています。

2.入間市に移住当初
吉祥寺から入間市にある西武線狭山丘駅から徒歩約20分のところにある土地を角栄建設が土地50坪付きの木造平屋の分譲住宅を販売しました。この住宅は、昭和30年代に角栄建設(田中角栄とは無関係)という会社が開発、分譲した戸建住宅のニュータウン(角栄団地)です。この団地を見学したところ家のすぐ前に川幅2mほどの小川が流れ、そこにはザリガニがいて、対岸は林でカブトムシなどが生息していました。角栄団地は大小ある土地を選び、そこに平屋の住宅を建てた住宅です。土地は将来建て替える予定で広めの角地を選び、住宅は資金の都合で小さめ家を選び建築してもらいました。家の前は道路でその先は上述した小川、その向こう側はカブトムシが生息する森林ですので子供を育てるには申し分ない場所に新居を構えることができました。
 自宅から他の住宅を眺めると写真2のようで、我が家も同じような家でした。決して立派な家ではありません。当時、航空宇宙研究所に勤める国家公務員でしたので国家公務員共済組合と角栄建設から資金融資を受け、長期返済で土地付き持ち家を確保しまました。

入間に移住した当初は、筆者の母親と長男、家族4人で新生活をはじめました。その後、数年ののち次男、長女が誕生し6人家族になりました。4人家族の時は、駅までの通勤は自転車で、妻は幼稚園の教諭でしたので、写真3のように相乗りで通勤していました。

3.建て替え住宅 
 次男、長女が生まれ、手狭になり、写真4に示す積水ハイムの二階建ての家に建て替えました。土地は約50坪ありましたので狭いながらも小さな庭、玄関前には車庫のスペースも確保できました。後述する小型車で最寄りの小手指駅に駐車場を借りそこまで運転、西武鉄道でJR国分寺駅、そしてJR中央線に乗り換え三鷹駅、さらにバスに乗り換え宇宙技術研究所に通いました。その後、縁あって東京工業大学に出向し13年勤め、さらにその後は放送大学5年、そして東京電機大学理工学部(埼玉県鳩山町)へ転勤16年間通勤しました。
 写真5は庭に植えた薔薇の手入れをする真喜子、写真に見える自宅前の道路は「コ」の字型道路で突き当たりを右に回ると元の道路にもどります。したがって、家の前は滅多に車が通らないので、とても静かな環境の住宅地です。
 写真6は玄関の扉前に立つ筆者です。玄関ドア右脇に「防犯連絡所」と書かれた黄色の縦標識が見えます。これは 若い頃に町内会の防犯連絡所の役割を担当したときの標識です。この標識が非常に防犯に役立っています。それは、ひところ「消化器」の物売りが頻繁に訪れる時期がありました。その物売りたちが「防犯連絡所」の標識を一瞥すると立ち去ることが分かりました。その他にも色々な物売りや押し売りがありましたが、 「防犯連絡所」の標識に気がつくと、玄関ベルを鳴らすことなく立ち去ることが分かりました。そのため、この標識は下心ある物売りを退治する“おまじない“の役割を果たしているので、いまだに撤去していません。今でも「防犯連絡所」標識を外さずに取り付けてあるのは、以上の理由があるからです。
 写真7は我が家二階ベランダから撮った桜並木です。道路右側は土手で、その土手にある鉄柵の右下に小川が流れています。その小川にはかつてザリガニが生息していました。倒れそうな桜の老木が右側に見えますが、我が家の子供達が木登りをしてよく遊んだ桜の木です。その子供達は50歳を超えていますので、私たち夫婦もそれなりに歳をとり、よくぞこの年まで生き残れたことだと夫婦で感心している今日この頃です。

4.自宅から富士山が見えていたが!
かつては雪をいただく冬の富士山が天気が良い日に我が家2階ベランダから写真8のようによく見えました。しかし、写真9のような大型マンションが茶畑の向こうに建ったお陰で、マンションが建つ前によく見えた写真8の富士山がまったく見えなくなりました。このように郊外に住み、見えていた美しい景観は、高層ビルが建ったお陰で見えなくなったことは誠に誠に残念です

5.散歩道4箇所の富士山ビューポイント
 近所の散歩コースを歩くと写真10のような茶畑が見えてきます。遠方に見える住宅は、角栄団地で、ピンク色の家の左に平らな屋根の白い家が見えます。その家はセキスイハイムが建てた我が家小川亭です。写真からわかるように我が家の後ろは茶畑です。しばらく歩くと写真11に見る富士山が、さらに進むと写真8の富士山が見えてきます。このように遠方ですが雪をいただいた白い富士山が見える箇所が散歩コースに4箇所ほどありますので、天気の良い冬の日の散歩は楽しみです。

6.多摩湖から見える素晴らしい富士山
 散歩に出かけるのには少々無理ですが、車で出かけるとわずか10分ほどで、富士山が良く見える箇所まで行けます。その場所は、埼玉県立狭山自然公園狭山湖(多摩湖(村山貯水池))です。写真12は、多摩湖の背景に見える美しい春先の雪をいただく富士山です。真っ青な水の多摩湖、真っ白な雪で覆われた富士山、桜が咲く時期で満開が近い綺麗な桜が同時に見えた写真です。
 公園内の散歩で疲れたところで休める休憩所は写真13です。ここからも額に収まるような富士山を見ることができます。

7. 20周年記念を迎えた和ヶ原ラジオ体操会
 狭山自然公園狭山湖の散歩終え、帰る道すがら写真14のように優雅な富士山が見えました。
 我が家は入間市にありますが、写真7の桜並木右側で川の反対側の家は所沢市です。自宅は所沢市と入間市の境界にあります。写真15は、所沢市にある和ヶ原公園で、朝6時半から始まる和ヶ原公園ラジオ体操会の体操風景です。筆者は、この所沢市にある和ヶ原公園で行われているラジオ体操には、軽い脳梗塞を起こすと同時ごろコロナ禍が始まった4年前まで毎日真面目に参加していました。ところが脳梗塞を起こし歩行困難になり、公園まで行けなくなり、公園で行うラジオ体操ができなくなりました。当初より、月末に気象庁が発表する所沢市の毎日の平均気温をネットで調べ、係が調べた参加者人数記録を統計的にまとめるお手伝いをしてきました。ラジオ体操会に出席できない今でも、自宅にデータを届けていただきデータ整理のお手伝は行っています。普通に歩けるようになり、早く体操会に出席したいと願い、散歩をするよう努力していますが、良くにも悪くにもならず平行線をたどっています。要支援1状態となりましたので、介護保険が使える運動型デイサービスに週1回でかけ軽い運動は行っています。残念ですが思うような回復は今のところ見られません。回復し20周年記念を迎えた伝統ある和ヶ原ラジオ体操会に参加し、写真15で運動している皆さんと合流し、体操ができる日が早く来ることを願っています。

8.おわりに
 結婚し、三鷹市吉祥寺で3年間アパートに住み入間市の持ち家に移住しました。ここ入間市に移住した動機は単純で、飛行機やロケットが大好きで、それらを研究する航空宇宙技術研究所に勤めていたからです。入間市には航空自衛隊入間基地があり、毎年11月23日にブルーインパルス他の航空ショーが行われ、当日その航空ショーが行われる様子を自宅にいて見えるのではないかと思い、一生住む家を入間市に決めました。しかし、ショーが始まると、よく見える場所は基地内の滑走路上空がメインです。滑走路から外れて飛行するブルーインパルスは急上昇するか、進路を曲げて飛ぶので我が家から飛行機は見えますが胸をとどろかすような見事な飛行は見られず、思っていたほどの勇姿は自宅からは見えないことがわかりました。
 近所を散歩すると4箇所で富士山が綺麗に見え、多摩湖まで足を伸ばして出かけると写真12、13のような美しい富士山が見え、春のお花見シーズンは格別に良いです。ただし、何しろ遠方から眺める富士山ですので、空気が綺麗で晴れた日に限定されることが難点です。

コメント

  1. NORIKO HORIUCHI より:

    文面から術宅地の様子が良く分かり、
    小川さんの人生感も垣間見られ興味深く読ませて頂きました。
    有難うございます!❗